６、母

ハフマンさんの体調が悪くなっていることに俺は気づかなかった。
今日になって、急に寝込んでしまい朝食にも顔を出さなくなった。
心配したミルが朝食を持って母親の部屋に行ったのだが、追い返された。
俺はどうしていいのかわからなかったので、とりあえずいつも通り仕事をしていた。
タチリもいつものように掃除をしていた。
俺は仕事を終わらせるとまだ掃除をしているタチリの所へ行った。
昨日のことを思い出すと嫌な気分になった。
少しためらった後、ドアを開けると、そこにはタチリだけがいた。
俺は胸をなでおろす。
「なぁ、タチリ。」
タチリはモップを手にしたまま黙って下を向いていた。
「タチリ？」
何か考え込んでいるらしく声をかけても反応しなかった。
俺は近づいていって、肩を叩いた。
「なぁってば！」
ここまでやって、タチリはやっと俺の存在に気がついた。
「あ・・・・・キヒト。どうしたんだ？」
「タチリこそどうしたんだよ。何度も声かけたのに、全然気づかないし。」
タチリはしばらく目を丸くして俺を見たあと小さく「ごめん」とつぶやいた。
どうやら本当に気づいていなかったらしい。
「ハフマンさん、大丈夫かな？」
タチリはビクリと体を震わせた。そして、ゆっくりと顔を上げ、俺の目を見つめた。
「キヒト・・・・・」
その顔は何だか悲痛だった。
俺はタチリの次の言葉を待った。
「・・・・・やっぱり、ここを」
タチリが何か言おうとした時だった。

ガシャン

遠くで何かが割れる音がした。
ハフマンさんが寝ている部屋だ。
「母さん、何があったの？！」
ミルの声。
「ダメよ！開けないで！！」
「でも！」
ミルとハフマンさんの口論する声が聞こえた。
タチリがモップを放ってハフマンさんの寝ている部屋へ早足で歩き出した。
「？！俺も行くよ！」
言って、俺もタチリについていく。タチリは何の反応もしなかった。
返事も、振り返りも、止まりもしなかった。
ハフマンさんの部屋の前にミルがいた。
ドアの前でおろおろしている。
「キヒト、ミルを別の部屋に連れて行ってくれ。出来るだけ、この部屋に近づかないように。」
タチリの顔は張り詰めた糸のようだった。変に刺激すると切れてしまいそうだ。
「・・・・・うん。わかった。」
俺はどうしていいかわからずにいるミルの腕を引っ張って、無理やり別の部屋に連れていった。
タチリは何か知っている。
ハフマンさんが体調を崩し、誰も部屋に入れたがらない理由を何か知っている。
俺にわかったのはそれだけだった。

部屋の中で俺はミルと二人だった。当然だ。この家には俺とミルとハフマンさんとタチリしかいない。
ミルは今にも泣き出しそうだった。
「なんで？なんで母さんは私を部屋に入れてくれないの？」
ミルは相当困惑していた。
俺の腕をつかんで離そうとしなかった。
「病気ならちゃんと食べなきゃいけないし、必要ならお医者さんも呼ばなきゃいけないし、なんとか治さないといけないのよ。！」
「うん・・・」
「父さんも死んで、それだけで大変なのに、今度は母さんも死んじゃったら私独りになるじゃない！なんで私を避けるの？私のこと嫌いになったの？私何か悪いことした？それなら謝るから私を独りにしないで！」
ミルには俺の言葉も声も届いていなかった。
つかむものなら何でも良かったのだろう。別に俺の腕でなくても。
ただ訳がわからなくなっている。思ったことを言葉にして大声で叫ぶことでミルは何とか自分を保とうとしているようだった。

パンッ

軽い音が響いた。
俺は凍りついた。
ミルは叫ぶのをやめた。
俺はこの音を知っている。

銃声だ。

ハフマンさんの部屋。
俺はミルを置いて走った。
誰が発砲した？考えられるのは2つ。
ハフマンさんか・・・・・タチリか。

勢い良くドアを開けると、そこにはタチリが立っていた。
奥のベッドにハフマンさんがいる。
ベッドの脇の花瓶の残骸が床に散乱していた。
タチリが振り返った。
「キヒトか。」
タチリの顔と服に血がついていた。
「今・・・・・銃声が・・・・・」
俺はおそるおそる声にだした。
ハフマンさんが力なくベッドに倒れる。
「ああ、俺が撃ったよ。」
タチリの右手には拳銃が握られていた。
その手をもうひとつの手が握っていたらしい、糸の切れた人形を思わせる腕がそばにあった。
「・・・・・・え？」
ハフマンさんは動かなかった。
俺はそのとき一体どんな顔をしていたのだろうか。
きっと酷い顔をしていたに違いない。
でも、何故か冷静に何が起こったのか理解してしまった。

タチリがハフマンさんを撃ち殺した。

「訳はあとで説明する。とりあえず、ここの片づけをするからもうしばらくミルを見ていてくれ。」
タチリは淡々とそう告げると片づけを始めた。
俺はその場に立ち尽くしていた。
「キヒト。早くミルのところに行けよ。こんなところあの子が見たら大変なことになるぞ。」
背を向けたままのタチリ。
俺は返事もせずに部屋を飛び出した。

おかしいよ。そんなわけないよ。だって俺達はもうこんな世界から離れたところで生活しているはずなんだ。
人が殺されたり、人を殺したりなんてあるわけないんだ。
じゃあ、今起こったのはなんだ？なんなんだ？わからない。わからないよ。
タチリは人を殺したりしない。俺も人を殺したりしない。
それが出来ないからあそこから逃げてきたんだろ？そんなことしたくないからあそこから逃げてきたんだろ？
俺はミルのいる部屋に行った。
「何があったの？」
ミルはずいぶん落ち着いたようだった。
混乱している俺をミルは不思議そうに、そして不安げに見ていた。
「いや・・・・・なんでも・・・・・」
ミルが首をかしげる。
俺の中で黒い声が聞こえた。
俺はそれを抑えようとして必死にもがいていた。
ダメだ。言っちゃダメだ。今言っちゃダメだ。ここで言っちゃダメだ。違うんだ。それは違うんだ。
腹の中で反響し大きくなった黒い声は喉まで上がってきた。
言うべきじゃない。少なくともこんな言い方するべきじゃない。それは裏切りだ。それは俺の黒い願望だ。
黒い声が俺の口から漏れ出てきた。
「タチリがハフマンさんを撃ち殺した。」
「・・・・・・・え？」
眉をよせ、瞬きを数回繰り返すミル。口はぎこちなく笑っている。
「わからない」と「信じられない」と「冗談でしょ？」をごちゃ混ぜにしたような顔。
きっと、さっきの俺もこんな顔をしていたのだろう。
俺はそんなことを考えてミルを眺めたいた。

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